神奈川新聞に連載された、
髙橋弘会長(万葉倶楽部)の自伝、
”わが人生”の転載です。
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父は「徴用されるくらいなら」と
会社勤めを辞め、
農業に転じました。
戦局が厳しくなり
食糧増産が叫ばれていたので、
農業従事者は
徴用されにくかったのだそうです。
そのときに
人に貸していた小作地を
返してもらって
耕作を始めたおかげで、
戦後、
小作地の解放を目的とした
農地改革で
農地を国に買い上げられずに済み、
食糧難の時代を
乗り切る事ができました。
私は姉一人、弟妹が5人の
7人きょうだいの長男です。
「産めよ殖やせよ」が国策で、
どの家も子だくさんが当たり前でした。
子供が親の手伝いをするのも
当り前で、農業のほか
「いわで」も手伝いました。
戦中•戦後は
たばこが配給制だったので、
朝5時くらいから
お客が店の前に並びます。
でも、
数が少ないので
全員には行き渡りません。
「もう終わりました」と
伝えたときの
相手のガッカリした表情は、
今も覚えています。
(つづく)