今日午後、
友人の池田修一氏を伴い
北野姐さんを取材するため、
昨日に引き続いて、
起雲閣(鶯の間)に入る。
昨年から、
北野姐さんを含む複数の
芸妓置屋の女将を取材しつつ、
熱海芸妓置屋組合所属の
置屋数が55軒にまた、
登録芸妓衆が80人に激減した
根本的な理由と窮状や、
今後の展開を含めて、
改善の余地があるのか、
お話を伺ってきた。
激減の理由は単純明快で、
宴会客の激減に伴い、
ホテル旅館からの需要が減り、
コンパニオンが増えるとともに、
市場が狭まり、
食っていけないことで、
置屋の廃業や芸妓の離脱が
加速したとすれば、
熱海の芸妓文化の伝承と
生き残りをかけ、
大胆な改革が不可欠である。
そんなこんな小生なりの
斬新な企画案の骨子は
出来上がっているのだが、
さらに詳しく、
熱海芸妓の歴史を学び、
資料集めをしながら、
新たに半玉さんや芸妓が
新規参入し易い魅力ある
”置屋”作りを目指して
仕組みづくりを模索している
そうした流れの中で
熱海芸妓の生き字引である、
北野姐さんを追っかけ、
資料集めをしているのだが、
昨日と今日の話の中で、
熱海芸妓のルーツが
北野姐さんの市山流と共に
次第に明らかとなったのである。
時は1895年(明治28年)、
湯河原吉浜と熱海間10,4kmに
人車鉄道が敷かれ、
熱海駅の誕生とともに、
北野姐さんの義祖父によって
置屋(喜美の屋)が
開業されたそうである。
(つづく)