髙橋弘会長の自伝
神奈川新聞連載、
”わが人生”(60)
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ーそして家業の酒販店との
二足のわらじを
脱ごうと決心しました。
私が子供の頃から
「ゆくゆくは長男のお前に
家業を任せるぞ」と
言っていた父も、
私が写真業を
大きくしているのを
見てきたからでしょう。
「よし、そんなにやりたいのなら、
やってみろ」と認めてくれ、
次男の芳雄が
家業を継ぐことになりました。
この時私は父に
”職業選択の自由”を
与えてもらったと感謝しています。
母は反対したものの、
私が10年前に
高校進学を決めた時から
こうなることを覚悟していたのか、
強くは言いませんでした。
当時日本では
高度成長を背景に、
カメラが一般の方にも
休息に普及しつつありました。
ニコンやキャノンといった
現在も健在なメーカーのほか、
アイレス、ミランダ、ヤシカなど
約200社ものメーカーが
しのぎを削る
カメラ大国でした。
現像やプリントを行なう
DPE事業は、
時流に乗った成長産業でした。
(つづく)