髙橋弘会長(万葉倶楽部)の自伝、
神奈川新聞連載”わが人生”その(64)
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ー同デパートの出店者は
親睦会をつくっており、
ジャンボーも
仲間に入れてもらいました。
地元•小田原の老舗が多く、
20代の私は
最年少だったと思います。
親睦会では年に1,2回
旅行に行きました。
仙台に行った時、
地元銘菓の看板が
あちこちに立っているのを見て、
「鈴廣かまぼこ」の
おかみさんが「これだ」と、
文字通り
膝を打ったのを覚えています。
東京五輪を2年後に控えた
1962年、「日本ジャンボー」は
カラー写真の現像•焼付けの
受付を開始しました。
地元の静岡では初めてでした。
この頃のカラーフィルムは、
富士写真フィルム
(現富士フイルム)の「フジカラー」、
小西六(後にコニカ)の
「サクラカラー」、
米国イーストマン•コダックの
「コダクローム」が代表的で、
現像もこれら、
大手フィルムメーカーが
一手に引き受けていました。
(つづく)