1970年代の記憶をたぐる。(総成カントリー倶楽部東京営業所時代)

今日の昼営業はGW期間としては
予想以上の売り上げだった。

目黒区内に住む都内の知人夫妻が
終の住処を求めて偶然にも

月一親睦会(佐口会)メンバーの
第一ビル内のロ◯ヤルリゾートで、
物件の紹介を受けたことから、

来宮神社近くの物件を案内され、
その帰路ラーメン屋に立ち寄るなど、
午後4時まで客が途切れるなかった。

さて、旧国際放映撮影所時代の
恩人の一人、演技事務所属だった

坂内英介氏との交流を記す前に先ず、

その前段を、過去に記載した
小生のブログから抜粋する。

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熱海後楽園を2年で退社後、結果として
愚妻の家業(建築板金)を手伝う傍、

廃業した「ホテル池田」の
クラブでボーイのアルバイトに入る。

ホテル池田の親会社は横浜鶴見で
旭硝子の下請け会社「S硝子」。

昭和45年度の長者番付で
『S硝子」のH会長が全国2位となり、
成田市にあったゴルフ場を買収。
(旧成田カントリークラブ)

成田空港開設をめぐる紛争が続き、

買収したメンバー制のゴルフ場は、
償還金返済期が迫り、その他
債務超過で倒産寸前だった。

ゴルフ場を買収した「S硝子」は、
成田カントリーを整理して、

”総成カントリー倶楽部”として、
新たに経営を続けることとなった。

買収した後、ホテル池田から
ゴルフ場に用度係や調理師に加え、

何故か小生も打診されたことで、
愚妻とも相談の上、板金屋の仕事は
実弟明を釧路から呼び新天地に向かった。

ゴルフ場でのエピソードは
山ほどあるが今回はスルーして、先ず、

ゴルフ場では

調子の良さが買われたのか、

東京営業所所長代理として

銀座にあったホテル池田の
東京営業所を中心に首都圏の

コンペ獲得やホテル池田の
誘客に奔走した。

ゴルフ場をキーワードに都内の
大企業の部課長クラスや代表にも
難なく面会が許され、その伝で、
多くの顧客を獲得できたのである。

コンペを取り、業績を上げれば
後は時間を有効活用できる立場にあった。

成田には日帰りや泊まりなど、
その都度、篠塚、古山両プロから

レッスンを受けていたが、一向に
上達することなく現在に続いている。

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そして、坂内英介との出会いは、

昭和47年に総成カントリー倶楽部を
退社した前後だったと記憶している。

(写真は当時の名刺と篠塚、古山プロ)

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

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