熱海市咲見町、大正の古きを訪ねる。(山口藤子・熱海今昔より)①

さて先日、富岡市立図書館長に依頼の
大正年間の熱海市内の地図が届いた。

できればこの時代の写真が欲しかったが、
残念ながら市立図書館には所蔵写真が
見当たらないことから、富岡館長から、
せめて当時の地図でよければと、

2002年に私立図書館が第55回読書週間の
記念配布した市内の地図を用意して頂いた。

ここに一冊の冊子がある。

タイトルは「あたみ」。ここには、

小生の自宅ビルがある場所についてや
大正末期から昭和初期の咲見町界隈の
様子が書かれている。今に続く民家や
商家の屋号もある。作者は先日記載した、

山口藤子さんである。この話は以前、
掲載した経緯があるが、今回は別の観点から
ご案内させていただこう。

ー山口藤子著ー(1)

ー大正12年関東大震災が発生し、
熱海の中心地である銀座通りは津波にやられ、
(父母は)家と家財も失い、その直後から

咲見町(現在のあと5分)の処に済んだ。

熱海駅より網代まで県道だったが、
大正14年に着工から19年ぶりに完成。

学童の服装は、女史は勿論和服で、
男子もかすりの着物で下駄履きが多かった。

仲見世通りと呼ばれたのが、昭和9年12月。

平和通りはなく元松坂屋前の通りには
人力車や車の通りであり、

陸軍衛生病院に行く道が一つで、
行き止まり。現ビジネスホテル銭屋前より
藤沢公園横を下った海岸に行く道が一つ。

咲見町を通って網代まで、
ここが幹線道路であった。

大正14年、乗り合いバスができ
タクシーは時折にしか走らなかった。

(つづく)

 

 

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

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