山口藤子(93歳)さんの随筆「なぜ どうして 気を見て敏な 子になった」⑴

山口藤子さん(93歳)から封書が届いた。

山口さんは熱海市議を8期連続当選した、
故山口包夫氏の未亡人である。現在は
伊豆海の里で余生をエンジョイする傍ら、

大正から昭和、平成三代にわたる、
熱海温泉の語り部としてその歴史を
随筆に書き残している。封書の中には、

亡き夫との思い出を書き認めた、県の
芸術祭に投稿した作品が入っていた。

縁あって小生の議員時代には夫君に重ねて、
応援して頂いた恩人の作品をご紹介する。

・・・

「なぜ どうして 機を見て敏な 子になった」

ー昭和4年、5歳の私は、父に連れられ
静岡に行き、列車は東に・・・東に走る。

「窓を開けるでないぞ。煤(すす)が入るから」

注)大正14年熱海線開通。昭和2年電化

急に富士山が目に入ってきた。
”わあ””わあ”初めて見る富士山・・・

声を出したことは覚えているが、
言葉ではなかった。
熱海では富士山が見えない。
父は教えてくれた。国府津から、
御殿場線に乗り換え西に来たことを・・

「よく気がついたな。えらいぞ。
これからも良く物を見ることだ。
日本は熱海で終わりと云っていたお前・・・」

戦前・戦中・戦後「なぜ」「どうして」
その言葉の上に・・・「機を見て敏」、
この言葉が私の頭から離れない。

私を支えてくれた軍事郵便「73通」
竹久夢二の「宵待草」

「待てど暮らせど、来ぬ人を宵待草の
やるせなさ。今宵は月も出ぬそうな」

現代の人から見れば、笑いぐさかも
しれないが、大正の人間・・・。
古い女でした。彼は北支。昭和17年から

軍事郵便を胸に、空に向って涙しながら
無事帰って欲しい・・・。
祈り続けた。とても苦しかった。

母が乳がんの大きな手術。右手は動かず。
友達に・・・軍事工場に・・・

私は町内会、医師の証明を貰い
食料営団事務員をしながら、母の看病
父、弟妹達の食糧の買い出し・・・

だが、彼は私の目の前に現れた。
昭和20年始め・・・
病床にいた母は喜び泣いてくれた。

二人のことは軍事郵便でうすうす
知っていた両親は、
夫の家に話し合ってくれた。

戦中下、話しは進まず。
彼はどこかの部隊に帰っていった。

母は、終戦の年、7月30日他界・・・。

悲しむ日少なく、慌ただしく
昭和20年12月3日結婚したのである。

男子、女子2人の子供に恵まれ
幸せもつかの間、昭和22年
市議立候補選に・・・。78名。当選30名。

夫は75番。当然落選。

昭和30年当選以来、8期連続当選。
私も夫と共にズック夫人と呼ばれる程
熱海市内を30年以上歩き続け、それが、
私の財産となっている。今思うと、

「ありがたい」の一言に尽きる。

熱海中を知る事ができた。
後援会組織を作り、年に2~3回全国を
バスで回る。行き先の歴史、名所、
名産等を調べ、時々コピーした物を
参加者に配る。これが私の仕事。

大変だったが、今になると私の財産。

良く勉強した。夫が生前、
「晩年、市政について書くつもり、
資料を頼むぞ・・・」

その日を待ったのに。無念であったろう。
お宮の松前で交通事故死。

(つづく)

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

0 Comments
scroll to top