昨夜は医王寺で執り行われた
故池田孝太さん(ホテル池田創業者)の
葬儀に出席する。振り返れば、
ホテル池田と関連会社での
数年間の経験が小生にとっては
その後の人生を今に導く、
分岐点だったように思える。
例えば、2005年7月30日付けの
ブログを掘り起こせば、
ホテル池田の関連会社である、
総成カントリークラブでの
出来事やここに至までの経緯が
写真とともに記載されている。
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この写真は確か昭和46年に、
総成カントリークラで写したもの。
へっぴり腰で
レッスンを受けているのが小生。
中央が、篠塚シンジプロ(当時)、右が
古山レッスンプロ。(総成所属)
なぜここに?
話せば長い事ながら小生が
熱海後楽園を退社したのが、
昭和42年3月。
辞めた理由は、
女房の実家を手助けする為で、
小生20歳の時にある目標を定め、
そのことを成就しようと、
熱海後楽園をスッパリと辞めた。
女房の実家は建築板金屋。
目標の一つが、25歳までに自力で、
家を建てることだった。
板金屋を経験することで大工や
工事関係者とのつながり、
屋根を葺くにも原価で出来る。
土地取得代金も含めて、
500万円を貯める事を
先ず第一目標に掲げたのである。
銀行からの融資を仰ぐためにも、
最低限目標200万円を貯めるため、
バイトをする事を条件に、
実家の義父にも断りを入れ、
実家の板金屋が終わった後、
桜町の八百屋さんでバイトし、
午後9時頃から、
ホテル池田のクラブでボーイをする。
小生のキャラが珍しかったのか、
当時の池田のスタッフには可愛がられ、
特に、
故遠藤一、折井、伊藤の
幹部社員には大変な恩義を受けた。
ホテル池田の親会社は
横浜市鶴見で旭硝子の下請け会社、
「セントラル硝子」。
この親会社が
昭和45年度の長者番付で
全国2位となりどういうわけか、
成田市のゴルフ場を買収する。
成田空港建設をめぐる紛争が
活発だった頃の話でその頃、
買収した旧成田カントリーは、
メンバー制で償還金返済期が迫り、
その他債務超過で倒産寸前だった。
セントラル硝子はゴルフ場を買収し
そのまま経営を継続することになり、
ホテル池田からゴルフ場に
出向組が選抜され用度係り、
調理部に加え小生も抜擢された。
(つづく)