飯田真一氏の実弟で元商社マンで大阪在住の
K氏からメールが届いた。K氏も真一氏と
下淡水渓架橋建設100年記念祭に出席している。
兄の真一氏が話すには、祭典では高雄市及び
大樹郷区長を始め義守大学の傳播学教授ほか
大樹文史協会の関係者からの接待ほか、
地元テレビ局や新聞社等々からの取材を受け、
飯田豊二の偉業を誇りを持って帰国した。
ついては何らかの形で恩返しがしたい。との、
真一氏の気持ちが今日に至っている。そこは、
身内であるK氏も十分に忖度しているようだ。
さて前置きが長くなったが、K氏のメールには、
ーこの度、石森先生、村山先生と慎一の
訪台に関して微力ですが、台湾の関係者との
連絡窓口をさせて頂きます。しかし、私は台湾語は話せませんし、書くこともでしません。
訪台に関して微力ですが、台湾の関係者との
連絡窓口をさせて頂きます。しかし、私は台湾語は話せませんし、書くこともでしません。
最小限度の連絡は、娘が中国語を勉強しましたので、
中国語での連絡はできます。ただし、台湾語は
中国語と異なり、 難しい漢字を使いますので
中国語での連絡はできます。ただし、台湾語は
中国語と異なり、
台湾語に翻訳するソフトは持っていません。悪しからずさて、日台合作映画等 の製作企画書を
台湾にMAILに添付して送りますので、まず
私のMAIL宛てに送って下さいー。
台湾にMAILに添付して送りますので、まず
私のMAIL宛てに送って下さいー。
・・・・・(飯田豊二
阿里山は台湾檜の産地として有名である。
当時は山深く、前人未到の地で、山岳は
台湾の特性として急峻にして道もなく、
地図もない森林鬱蒼としたところだった。
飯田豊二は明治33年台湾総督府鉄道技師に
任ぜられ、大正元年に高雄の打狗出張所
工務掛長となり、台湾で流域最大の河川、
下淡水渓の架橋工事主任となった。
この鉄橋は全長で1526mあり、当時の
阿賀野川や天竜川よりも長く東洋一を誇った。
24連のトラスが並びその様子は
世界の鉄道技師たちを感嘆させた。完成後、
記念碑が建立され地域の人々の尽力により
破壊を免れ歴史遺産として残っているのは
既報の通りである。