話しは今から47年前(昭和40年3月30日)に遡る。この日は、
熱海後楽園竹の沢に入寮する二日前だった。同時に、
北海道釧路から東京の親戚を頼って上京した東京滞在3日目であり、
上京の引き金となった「小池朝雄」さんと面会が叶った記念すべき日でもあった。
小池さんをつなげたのは、吉永小百合と浜田光男が主演した
1963年公開の日活映画「泥だらけの純情」(中平康監督)だった。映画で
小池さんは浜田光男の兄貴分を演じ、感動的な演技力で、
映画少年だった小生の心を鷲づかみにしてしまった。同期生の
親族が経営していた末広町の映画館館主に可愛がられた3年間、
館内清掃を条件に和洋問わず多くの封切り映画を鑑賞できたことが、
今につながるのだが、中でもこの映画に感情移入し、
小池さんが所属する劇団雲宛てに、図々しくも駄目もとと、
弟子入り願いを書き添えたファンレターを送ったのである。暫くして
返事が届き、宝くじに当たったような感動を覚えたのを忘れられない。
こうなれば、しめたもの、押せ押せである。小池さんの制止も聞かず、
このチャンスをモノにするため、当たって砕けろ!。
単純明快に、故郷を離れる覚悟を書添えた。会うことで覚悟が通じて、
必ず道は開けるはずである。映画ではそうなる。
当時の事情を知る親友の伊木茂樹氏(釧路石炭社長)は小生が、
3年になって母校で実施された熱海後楽園入社試験を受けたことで、
役者の道には進まずに、熱海後楽園に就職すると読んでいたようだ。ただし、
遅かれ早かれ挫折して釧路に戻るはずだと、後になって打ち明けた。
確かに役者の道が閉ざされても、熱海後楽園がある。こどっちに転んでも
東京にでることで目標に一歩近づけるはずでもあり、
47年前の3月30日が波乱万丈の人生のスタート台となったのである。
ー昭和40年3月30日(火)天候晴れー(原文のまま)
◯朝は十時半ごろまで伸雄ちゃんと相もうをしたりレスリングをしたり。
下井草から西武新宿まで電車に乗る。東京に来て早くも4日目。
ベトナム戦争は悪化するしパチンコは入らないやら、二幸で
ウインナーと生ジュース2杯を飲む。地下鉄に乗り新橋で降りて
ホテルオークラを(の)そばを通る。そしてどうやら
劇団雲にたどり着く。呼び出してもらう。感激の一瞬、小池朝雄が出てくる。
(つづく)