今日は飯田豊二の話しから進めたい。今月末の
訪台(高雄市)を目指して準備をしていたが、
飯田慎一さんから諸般の事情で今月末の渡航は
延期して来月以降に変更する旨、来熱時に
報告を受けていたが先日、高雄市訪問の際に
通訳担当す予定だったワン◯エィ◯ーさんから
小生のメールとfacebookのメッセイージから
延期に対する確認の問い合わせが届いている。
慎一氏の実弟を通じてワンさんに訪問の日程が
届いていたのだが、訪問先への正式な来訪文を
作成していなかったことや、高雄と静岡を結ぶ
企画書が相手先に届いていなかったことから、
ワンさんを通じて役所を始め関連団体へ
改めて届けて頂くよう依頼する。ただ、
来月に入るとワンさんが来日予定であり、
9月15日から10月15日までの一ヶ月間、
日本に滞在する。したがってこの間は、
我々が訪問するにあたり新たに通訳探しの他、
訪台時期の再考他、慎一氏の返事待ちである。
さて、話しは先日慎一氏が持参した単行本
「日本の近代建築を支えた建築家の系譜」には、
6ページに渡って飯田豊二が特集されている。
この本のカバーに記されている
工学院大学の前身公手学校の歩みを転写して、
豊二に関する知識を深めて頂こう。
ー時は明治、近代日本は工業技術立国の
黎明期にあった。西欧の産業革命にならい、
工業化の中核をになう人材を養成するため、
帝国大学総長だった渡辺洪基は、
私立の工業学校の創設を決意した。
建築家の辰野金吾や土木を専門とする
古市公威と共に、8つの学科を擁する
「公手学校」を1887年(明治20年)に設立。
造家学科は後に建築学科と名前を変え、
日本建築界に多くの卒業生を輩出した。
◯日本銀行本店を設計した山本鑑之進、
◯絵画や国会議事堂を手がけた小林正紹、
◯大阪の初代通天閣と
京都国立博物館を設計した設楽貞雄、
◯宮内省で皇室建築を手がけた小林福太郎、
そして、飯田豊二が登場する。(つづく)