かつて、熱海温泉がバブル期を迎えた頃から、
市の政財界に大きな影響力をもち業界発展に寄与した
実力者の一人が一昨日その生涯を閉じた。
その人物の名前は「菊間一光」氏。享年77歳。
時代の寵児もバブル崩壊後はその後遺症との
戦いに敗れ故人の象徴でもあったホテルを手放す、
苦渋の選択後、小田原に転居して、
捲土重来を期して努力を重ねてきたが、及ばず
入院加療中だった千歳病院にて力つきた。思えば
故人が一介の魚屋から旅館組合長に登り詰めるまでの
サクセスストーリーを知る立場にあったのも、
昭和50年代の始め縁あって心を通じ合い。そして
多くの人脈を紹介され可愛がって頂いたからである。
昭和53年9月の市長選挙での市議会補欠選挙に
全く無名だった小生が立候補するに至った、その
過程に関しての多くのエピソードについては、
熱海の裏面史として記録しており、機会があれば
何かのカタチで残しておきたいものである。また、
故人の経営者としての才覚が優れていたのは、
見習うべき師匠の存在抜きには語れない。
旧金城館会長・故宇佐見鉄造会長である。
出入り業者から側近として頭角を現し、宇佐見氏を
師と仰ぎ、献身的に尽くしながらその経営哲学と
ノウハウを学び、旧中央ホテル経営を決断する。
故人が代表を務めていた三伸商事(株)の
印刷部門を担当していた小生に、ホテルの宣伝コピーと
印刷を依頼されたことで人脈という多くのチャンスを得る。
”網元直営ホテル”、”当たっているから続けます”等の
コピーが採用され、チラシは神奈川県下を中心に、
一回50万枚もの大量配布を続けたことが功を奏し、
驚異的な売り上げを伸ばしたのは記憶に新しく、
折からのバブルの風に乗り、ホテル経営だけでなく、
自身出身の南熱海の漁業権を獲得する等商才に長け、
買収したウオミサキホテルの繁栄とともに、
業界に発言力を増し発展に寄与してきたのだが、一昨日夕方、
ついに帰らぬ人となったのである。ザット、記憶にあるまま
経緯を辿ったが、正直、故人の晩年は運気の光が当たらず、
世間の評判も毀誉褒貶相半ばするものの、少なくても小生や
雨宮崇彦氏(ニコー)にとってはお互の人生に少なからず
影響を与えた人物として、一緒に旅立ちを見送らせて頂いた。
ー合掌ー