日本の流行歌(はやりうた)は圧倒的にJ−POPが主流を占め、K-POP(韓流)の
市場席巻とともに、お目当ての人気シンガーやグループの、
イベントと化したライブステージを求め、ファン層が列をなしているのが、
朝のワイドショーやスポーツ新聞の芸能欄から読み取れる。他方、歌謡曲や演歌は
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J-POPとは真逆な、”あの頃”、”あの時代”を懐古する、
昭和ノスタルジック団塊層を中心に、カラオケを媒体として
根強いファン層を形成している。そこに焦点を当てたのが高橋弘会長だった。
歌謡曲と温浴施設。敢えて、昭和ノスタルジーを醸し出すことで癒しを演出する。
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高橋弘会長(万葉倶楽部)が万葉温泉施設展開にあたり、いち早く取り組んだのが、
施設のコンセプトを顧客にイメージさせる、BGMの制作だった。キッカケは、
石森史朗氏(脚本家)の作家生活50周年記念パーティだった。小生が司会を担当、
高橋会長は来賓として挨拶する。その会場で意気投合したのが、
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石森氏の友人でクラウンレコード所属の演歌歌手、
「西川晶」さんだった。西川さんのデビューは昭和48年。静岡市出身で、
こまどり姉妹などの前唄を務め、バンドを結成しジャズ喫茶などで
音楽活動をしながら、ラブユー東京(黒澤明とロスプリモス)、夜の銀狐(西条史郎)、
さそり座の女(美川憲一)のヒット曲を手がけた作曲家、
・「中川博之」氏に師事し、昭和48年、
おんな街、焼津港の別れ雨でレコードデビューを果たした。デビュー後、
主に地元静岡にちなんだご当地ソングを多く発表してきた。
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昭和55年、ラブラブ静岡の発売を機に、作詞作曲家としても才能を開花させた。
修善寺の女(市川昭介作曲)、かげろういのち(中川博之作曲)、
置き手紙)もず昌平作詞)ふたりの熱海(作詞・作曲)、
藁科川音頭(作詞・作曲)、命あるかぎり(作詞・作曲)
新静岡音頭(作詞・作曲)、恋の曼珠沙華(中川博之作曲)他、特に
走り雨(中川博之作曲)は、
中川博之作曲家生活40周年記念作品としてヒットした。また、
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西川さんは平成4年より約2年間、静岡SBSラジオ番組(西川晶物語)、
(西川晶カラオケ道場)のDJを務めるなど、平成10年より、
全国初の素人紅白歌合戦、歌の祭典、クラウン歌謡学院西川晶歌謡教室等をもち、
毎年新曲の発売を続け精力的に音楽活動を続けている。その西川さん、
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石森氏の出版記念パーティを通して、いわば、小生と石森氏が仲人した形となって、
高橋会長と西川晶さんが結ばれ、平成18年、高橋弘作詞、西川晶作曲唄の
「万葉の歌」が誕生したのである。この歌は、
日本クラウンより発売され、万葉施設のテーマソングとなった。
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都会に温泉を運んで癒しを提供する。唄うことで癒される、団塊世代の
顧客開拓とリピーターの囲い込みには、カラオケが不可欠となる。
飽きの来ないカラオケ大会を目指して、試行錯誤を繰り返しながらも、
全国万葉施設やホテルグループで独自のカラオケ大会を始めた。各施設で勝ち抜いた方には、
箱根「天成園」の舞台にて、年に一度のグランド大会へに出場権を付与し、
最優秀者に選ばれた方には、
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高橋弘作詞、西川晶作曲のオリジナル曲を提供し、新規作成した
プロモーションサイトにて、オリジナル曲をPRしていくプランも浮上している。今日は、
そうしたコンセプトにそって、熱海にちなんだ作品で、
高橋弘会長が補作詞した「熱海旅情」をお届けしながら、間接的ではあるが、
熱海再生への活動の一環をご案内させて頂く。