志賀直哉が贔屓にした藤中靴店(熱海市咲見町)は創業85周年!

一樹の陰一河の流れも他生の縁
(知らないものどうしが結びつくのも前世の因縁いよるもの)とでも云うのか、
或は、最近では一般の結びつきにでも使われている、
縁は異なもの味なものとでも、云うのか、ここ数回にわたって連載している
山口藤子さんと小生を結ぶ縁が、その土地が持つ
不思議な磁力に引き寄せられているのを、ビンビン、感じている。

大正末期から昭和初期に始まり現代に続く、熱海温泉歴史の語り部でもある、
山口藤子さんとの共通点は多い。ただ単に、
住居(咲見町同番地)や亡夫(一人会派市議会議員故山口包夫氏)の志だけでなく、
藤子さんの実家(小生の自宅ビル)が、
熱海で初のラーメン屋だったことと、小生もまた同じ場所にて
ラーメン屋を経営する、ラーメン屋繋がり。と云うことと、もう一点、

数遊びでも、拡大解釈するつもりもないが、屋号に関しても共通点がある。
千疋屋に対してや〜や〜屋。つまり、1000888となり、
偶然で片付けていいのか、という、不思議な接点がある。また、
藤子さんには初当選以来、応援して頂いているが、最近では、
そうした縁とは無関係ではない気がしている。ただ、

弘法大師空海との縁糸に関しては未だ精査していない。しかし、
これまで全く無関係、赤の他人だった人と人が、土地の持つ磁力に手繰り寄せられ、
縁糸で結ばれ、昔の物事から新しい知識や見解を得ることが出来るのは、
熱海再生を願う一人としては喜ばしいことである。さて。今日登場するのが、

文豪志賀直哉が贔屓にしていたと云う、藤中靴店さん。これまで連載してきた、
山口藤子さんの講演内容を話すと、膝を乗り出し喜びを露にして、
文豪志賀直哉さんとのエピソードも聞かせてくれた。その話しをする前に、

山口藤子さんの「大正末期から昭和初期の咲見町界隈」(3)をお届けする。

—町内の人たちが、お宅のラーメン縮れててとてもおいしいーと、
云われるたびに、父と母は、特に病弱の母は
ーお前の手伝いのお陰だよーと感謝され、嬉しくて涙したものである。

暇を見つけては本を読み、昔の綴り方少女と言われたくらい、よく書いた。
・・父は商人の心得を教えてくれた。
・“立つより返事”“いらっしゃい”を先に。
・ありがとうございます。を、ハッキリ。
・商人は速く身を動かすこと。
・一知って十を知れ!

色々教わった私は年齢の割合から、あたみ言葉で“は
しっこかった”のでなかろうかと自負している。昭和5年田方地震があった。
受け持ちの山本先生が職員住宅建物の下敷きになって亡くなり、
悲しくて学校で旧友たちと大声で泣いた。私の家の裏の石垣が崩れたが、その最中、
男の子が生まれた。4人目の男子誕生。大騒ぎであった。
その弟も妹二人も今はない。時の流れを感じる。





藤中靴店は皮革の修繕をやっていたので、
珍しくて店先でジッと見ていたが怒られもしなかった。

大きな丈夫そうな前掛けをかけた職人が、靴型の上に靴をおき、
油糸を通し乍ら縫っていたが、相当力を入れていると感じていた。(つづく)

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

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