斎藤か田島か?。熱海のまちは市長選候補をめぐって
市民も次第にヒートアップしてきたようだ。昨夜は
田島秀雄候補が観光会館にて、
「次の熱海を語る会」と称する決起大会を開いた。会場は、
地元から市長をスローガンの下、支持者が集結し、
定員数(604席)をクリアし、立ち見席まで埋まったようだ。また、
市議会からは11名もの同僚議員が駆けつけ、
勢いのほどを印象づけたと、参加者からの報告を受ける。ただ、
選挙は水物。開けてみなければ分からないものだ。
・・・小生自身、4年前の市議会選挙では、
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“村山は絶対に大丈夫、トップを争っているー”などと、
他陣営からのほめ殺し作戦をモロに受け、選対の緩みを指摘したのは
・・・高橋弘会長だった。会長は、
ー旧市政を倒したのは民主党であり斎藤だー、今回は、
世代交代の選挙でもあり、厳しい戦いと覚悟せよ、
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“大丈夫、だろうが招く山の事故”、の、名言とともに、
手綱を締めて貰い、結果、
薄氷を踏む思いで当選できたことを、教訓としている。
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選挙は蓋を開けてみなければ分からないが、最後の最後まで
油断は禁物である。票は一つ一つの積み重ね。商売党員の多い
熱海の経済的事情と支持者の表裏の顔色を、
どのように読み解っていくのかも、選対の重要な課題となる。また、
今のところ、両者の違いは明確で、静と動、移住者と地元、
公共事業促進と行政改革等々、比較検討しやすい両候補者だが、
勝利の女神がどちらに微笑むのか、小生には全く見えてこない。ただ、
二人の市長候補者には直に聞いてみたい事は山ほどある。
財源不足への秘策。加速する宿泊施設の休・廃業と身売りの歯止め策。
税収悪化予防への具体的な処方箋。また、何を持って
市民の経済的不安を解消しようとしているのか。
外国人観光客、特に中国からの旅行客取り込み対策。等々。
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何れにしろあと、約2週間で新しい熱海の顔が決まる。さて、
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昨日に続いて、熱海の歴史と文化の語り部、山口藤子さんの
「大正末期から昭和初期の咲見町界隈」(2)をご紹介する。
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ー鳶職の親方の家が三軒寄りそうようにあったと思う。
棟上げ式が終わったその流れが親方の家の前に並んで木遣りを歌った。
いなせな職人の姿は今熱海で見ることはできない。
就職を斡旋する周旋屋、提灯屋、のこぎり屋、下駄屋(歯入れが多かったが)
芸者さん、花柳界も多かった為か特殊な下駄も陳列されていた。
魚はよく食べたが、普通の家庭では肉等口にする機会は少なく、
山木屋肉屋さんしか覚えていない。
お豆腐屋さんは稲田さんだが、坂の上の豆富さんで通っていた。
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五十嵐洋服屋、小室和裁店、石山写真館、つゆき時計店、
種屋、杉山、八尾藤、魚仲、削り節屋等あったが、
飲食店が少なかったように思うが日本そば屋が一軒あった。私の家の商売は色々やった。
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大正末期から夏はアイスクリーン(自家製)。
現在でも昔懐かしいアイスクリーンと云って売っているが、
今の滑らかなのと違ってザラザラしているが、サッパリしている。
電気で固めるのではなくて、手回しであった。ピンク、黄の三角最中、
一銭、三銭出すと丸いカップに最中入りとなる。
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都松の処(今の起雲閣周辺)に野球場があり、父の後押し、(特殊なリヤカー)で
熱海夏祭りは勿論、伊豆山神社(芝居小屋横)でも、
珍しいのか良く売れたことを覚えている。かき氷、スイカの切り売り、
なし、桃、糸川方面に売りに行き、父が置屋等に届けにいくので、
リヤカーの番をするのが私の役目。私の家は、
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熱海で最初のラーメン屋であり、スープを時間をかけてアクを抜くこと、
シナチクは塩抜き、洗いに何日もかかった。粉にカンスイ、卵、
大きな布に生地を寝かせ足で踏み孟宗竹の上に腰を乗せ、
父は汗びっしょりになって打った。家に少しの間、王さんという中国人がいた。
シュウマイのおいしかったことと、
大きかったことが忘れられないし、今は横浜中華街でしかお目にかかれない。
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私は三年生位からは裏方さんに徹した。どんぶり洗い、盛りつけ等、
今料理が得意なのはこの時からの仕込みなのかもしれません。
おいしいものを作るには身をこまめに働かせることだと、教わった。(つづく)