今朝6時18分、高橋弘会長からーこれから新幹線の 一番で
新横浜経由で羽田から午前8時40分発の国内線で、
南紀白浜温泉へ出張です。帰りは飛行機が満席ですので、
JR(新幹線)で帰ります。お元気で 高橋弘ーと、メール第一報が入る。
・・・・午後4時27分、
ーもう少しで天王寺です。新大阪から小田原着が午後8時34分です。
早く到着したいから、電車の中を、
後ろから前に歩きます???、同じだよね。小生、
このメール帰宅途中の東京駅構内で受け取る。猛暑の中、
・・・笑いを癒しに変える会長らしい
寒〜いジョークだったが、思わず顔が綻んだ。で、つい先ほど、
・・・・午後7時18分には、
ー熱海駅 到着8時31分に成りました、今日は
やや屋で 帰りに会いますが?其れとも後日にしますか?
別に 急ぐことも 無いかな。で、
選挙戦 一寸先は解らないものです 。と、この暑さの中、
一日で、熱海〜南紀白浜温泉を往復したタフな会長のブログでした。
・・・小生今日も上京して、
山岸伸氏(写真家)から、先日撮影した
熱海「起雲閣」での作品集をDVDで受け取り、新しい形の
写真集の企画や今後熱海でイメージした写真撮りが出来れば、
電子書籍も含めた出版に持って行きたいとの意向を引き出す。
・・
山岸氏のブログを閲覧すれば既に、
今日訪問したことが写真入りで記されていた。今日は
昨日の出来事と併せてブログアップする予定だったが、その前に、
高橋会長の神がかり的思考とタフさが、
どこから来ているのかについて、縁を縦糸に勝手に想像してみたい。
・・・キーワードを、
弘法大師〜伊豆山に結びつけると見えて来るものは多い。
それに先んじて、熱海市の伊豆山神社HPを閲覧してみる。
神社の来歴には
こう記されている。ー古来伊豆大権現、又は走湯大権現、
伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して
伊豆山又は走湯山と呼ばれていたが、 明治になって
現在の社名に改称されたーとあり、さらに、
・・・・ー平冶の乱後、平家の手により
伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が
源家再興のことを当社に祈願し、後、鎌倉に幕府を開くに及んで、
驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて、
幕府最高の崇敬社として関八州鎮護とされ、
社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、
多数の社領を各地に所有していたとある。つまり、
源頼朝とかかわる、歴史的にも由緒ある神社であり、以前、
NHK大河ドラマの中でも需要な場面に登場したのは記憶に新しい。
・・・何故、冒頭この話しを持ち込んだかと云えば、
以前掲載した、高野山巴陵院の件で”縁”についてコメント頂いた
大阪浪速区にお住まいで、高野山金剛峰寺本山から
熱海喜峰院住職として辞令親授式を受けたという、佐古隆伸氏が読んだ、
2006年9月に記載したブログから、弘法大師との縁を抜粋する。
・・・・
・・・高野山巴陵院での奇遇
弘法大師「空海」は、日本真言宗の開祖で中国から真言密教をもたらし、
書道家としても能筆で知られている。
「弘法にも筆の誤り」「弘法筆を選ばず」や、「護摩の灰」などの諺や
慣用句を今に残している。また、
弘法大師が発見したとされる温泉は、日本各地に存在するといわれ、
山形、 福島、 新潟、群馬、山梨、長野、愛知、和歌山、鳥取、
熊本 、佐賀 長崎県と 広範囲にわたって各地の名湯温泉を発見したといわれ、なんと!、
熱海市の”伊豆山温泉”も、空海によって発見されたと記されている。
・・・その「空海」縁の高野山には、「DR喜多」の叔父さん、
故喜多頼一さんが戦後間もなく、「巴陵院」に、出家しており、
このご縁により「DR喜多」は、節目節目に何度も訪れていると話す。
高野山真言宗準別格本山”御所房”巴陵院は、
古来御所房(坊)と号し、御皇室ゆかりの寺院として、
高野山内第一の格式を有している。その由来は足利第百四代後柏原天皇、
第三皇子が住され、「巴陵院」(はりょういん)を、
御皇室の宿坊と定め、親王が奏聞されて1525年、
「禁裏御所房」の御綸旨を賜ったという。その際、時の院務円弁法師が、
勅令を受けて唐船「高麗船等貿易船」の祈祷を修し以来、
海上安全等の祈願所となった。当時は「福蔵院」と称していたが、
その後戦国から江戸時代に入り、相馬・高木・伊達各大名の、
菩提寺となり、1653年「相馬義胤公」(よしたね)の、
法名により、「巴陵院」と改称し今日に至っている。
「御所房」の御綸旨とその由来書は、現存している。(つづく)