去る17日、
第64回「尾崎紅葉」祭が開催され、
市長や県議等関係者約60人が集まった。
熱海市春日町のホテル「志ほみや」入口にある、
紅葉愛用の筆を祭る”筆塚”では、
毎年この時期、
尾崎紅葉筆塚保存会(榛葉博昭会長)や、
近隣5町内会が主催する、
「来宮神社」宮司による祭司で神事を執り行い、
祝詞奉上、参列者各位による玉ぐし奉奠の儀により、
熱海の名を今に伝える「紅葉」の
偉業感謝祭を催してきた。
挨拶に立った、田嶋県議は、
「筆一本で、熱海の名を今日にまで高めた功績は、
偉大である」と、感謝の意を述べた。
さて、この日、
午後6時から、熱海葬祭では
ある通夜が執り行われた。
博多良祐さん。
享年72歳だった。
博多さんといえば、
昨年8月2日、小生のブログでもご紹介させていただいたが、
熱海中央町「のり平」のオーナーで、
日本のゲイバーの草分け、
東京銀座「青江」で人気を集め、
昭和35年、現在の場所に「のり平」を開店、
源氏名を俳優「三木のり平」さんから頂いた事でも名を馳せ、
日舞の名取として、
数々のお座敷でその芸を披露してきた。
博多さんの交友関係は広く、
芸能・文化を通して、何度も熱海を紹介する、
雑誌やテレビに登場して、
最後まで、復活熱海再来を期すコメントを寄せていた。
小生が参加する月一親睦会メンバーも、
通夜に駆けつけ、
まだ早すぎる病死に涙していた。
小生が、昭和50年、
久保田千秋氏(旧熱海新聞社長)が
熱海市議会議員に初当選した際に、
青年部の一人としてお手伝いしたことが縁で知り合った、
咲見町のおそば屋さん「N]のご主人が、
中央町で開店したスナックでアルバイトした時から、
付かず離れずのお付き合いを頂いてきた。
最盛期には、
10人以上もの”ゲイ人”を抱え、
その一人ひとりの個性に全国から多くの贔屓客が、
熱海市に引き付けられてきた。
小生は、このスナックで当初、
鈴木三郎氏、IT氏(建設会社重役)等とアルバイトしていた頃から、
「のり平」のママ(博多さん)やイズミ、たかし、ユキ他スタッフが、
個人で或いはお客連れで立ち寄って頂いた事を思い出す。
小生は、撮影所で覚えた”逆さ言葉”を使ったのも、
「のり平」の影響が多かった。
また、造語を連発して、
”カレ等”を笑わせた。
餃子にはニンニクが含まれていることから、
その精力的な成分をツカミ、
「アニリッッキ」と名づけたり、(ナニ力が入るという意味)
「ベロニッチ」等、思い出すことは多い。
昭和50年代初めには、
スタッフを多勢「ハワイ」旅行などで慰労し、
稼いだお金の殆どを、「のり平」に還元してきたという。
一世を風靡した、
博多良祐氏の冥福を祈る。