昨日の続きになるのだが、
「ドクター中松」の欄でもチラッと顔を覗かせたのが、
協栄ボクシングジムの「故金平元会長」。
金平会長といえば、
世界チャンピオンだけでも、
古くは、フライ級の「海老原博行」、フェザー級「西城正三」、
Jrフライ級「具志堅用高」、Jrライト級「上原恒常」、
Jrフライ級「渡嘉敷勝男」、Jrバンタム級「鬼塚勝也」等
日本人ボクサー6人と、
旧ソ連出身の「勇利アルバチャコフ」、オルズベック・ナザロフ」等
元選手を合わせると実に8人の世界チャンプを育ててきた。
現在では、前スーパーバンタム級世界チャンピオンだった、
「佐藤修」選手や、
18歳で「東洋太平洋フライ級」チャンピオン王者となった、
難波の闘拳「亀田興毅」選手が所属している。
「金平元会長」も基本的には
五味武会長(国会タイムズ・グローバルレインボーシップ)人脈で、
生前は、湯河原を含めた熱海周辺での、
場外車券売り場設立構想を実現すべく、
元メガネスーパーの重役「I]氏共々駆け回っていた。
平成9年3月8日「旧つるやホテル」で開催された、フォーラムでも
この案件もテーマとなったものの、
丸金コーポレーションが頓挫しつつあった、
熱海駅前「ウインズ」開設問題が大きく立ちふさがり、
軽い話にとどまった。
(写真左より小生、故金平会長、歌手仲宗根美樹さん、
大川啓一元国会タイムズ編集長、故力道山子息百田氏)
(旧つるやクラブにて、故金平会長、小生、河合浩道桃山旅荘社長、ドクター中松秘書)
実は故金平会長は小生とは別の横糸で結ばれていたのである。
(1998年当時の、旧つるやを含む東海岸町ホテル旅館街)
なぜ結ばれていたか、
それは旧ソ連出身のボクサーに関連している。
小生の熱海後楽園時代の同期生に、
小野崎という男がいる。
小野崎氏も小生と同時期に後楽園を退社し、
家業のタイル屋を継ぎ、
子供の成長とともに、外国芸能人招聘会社を設立した。
その小野崎氏のプロダクションに、
アントニオ猪木氏が招聘し、
故金平会長の協栄ボクシングジムに、
「勇利アルバチャコフ」、「ナザロフ」等とともに
来日入門した選手の中に、
ヘビー級ボクサー「シビエフ・ラムザン」選手がいた
小野崎氏のプロダクションが、
旧ソ連から「タレント」招聘も業務にしていた関係からか、
練習が終わると事務所に立ち寄り親交を深めていた。
その連中を小野崎氏が小生に紹介してくれ、
特にラムザン氏が小生と親しくなり、
練習の合間を縫い何度となく「熱海」に遊びに来ていた。
「ラムザン」氏は確か小生の記憶では、
ソウルオリンピックヘビー級で”銅”メダルに輝いたはず。
しかし結果から言えば、協栄ジム入門の旧ソ連重量級ボクサー3人は、
アメリカのライセンスを取得することなく、
母国に帰っていったという。
(小生の中央町事務所でのラムザン氏と初代ジョンとパピヨン)
ただ、この「ラムザン」氏は、1991年
先ごろ急逝した「橋本真也」選手と、
異種格闘競技という冠で戦い、スポーツ紙面を飾ったが
敗戦したあと直ぐに勃発した旧ソ連崩壊を機に、
祖国へと足早に帰国したのである。
そして一年後、ラムザン氏はある要人を伴い
熱海に訪れてきた。
まず最初に面会していただいたのが、
高橋弘「日本ジャンボー」会長だった。
(写真左より高橋会長、マモダエフ暫定経済相、ラムザン氏)
シビエフ・ラムザン氏は
”チェチェン・イングーシ共和国”の出身だったのである。
そしてこの年、1993年、
小生は「チェチェン・イングーシ共和国」(当時)に、
小野崎氏のプロダクション関係者等と
招かれたのである。
当時日本人が殆ど足を踏み入れたことない、
「チェチェン・イングーシ共和国」の首都「グローズヌイ」。
今は内戦の影響で、
町並みは跡形も無く崩壊したとの報道だが、
小生は当時の貴重な写真とビデオに
1993年当時の美しい風景を収めている。
こうした旅行記や旧ソ連移入ボクサーの話を、
故金平会長は、小生を新宿高層ホテルにある
ご自分専用の特別室で、
ビールを飲みながら聞いてくれた日のことを思い出す。