明治時代沼津に居た兄弟二人の鉄道マン(飯田耕一郎と豊二)①

又吉直樹氏が火花を芥川賞受賞したことで、
芥川龍之介について、ネット検索し、
羅生門や鼻など東大在学中の作品について、

”あらすじ”や解説からショートカットして

現在に通じる、人の幸福をねたみ、不幸を笑う、
人間の心理を捉えた作品内容をPC画面上から
読み取り24歳の天才的な才人を再認識する。さて、

再認識といえば、台湾総督府時代に高雄の
下淡水渓に建設した鉄橋の鉄道技師として
その身を捧げ、今もって賞賛されているのが、

飯田慎一氏の父耕一郎氏の実弟豊二氏である。

小生にとっての魅力は、飯田豊二氏の義父が

成島柳北(朝野新聞主宰)という事実と、

故森繁久弥氏も縁戚にあり、飯田豊二と
成島柳北に新しくスポットをあてることで、

静岡県(熱海市及び沼津市)と台湾高雄を結ぶ
新観光ルートの開発が期待できるのである。

それでは飯田豊二に関する経歴を辿ってみよう。

・・・・・(参考資料・飯田真一氏提供)

明治維新、沼津市に飯田弘という幕臣がいた。
飯田弘の子どもに二人の兄弟がいた。名前は

兄は耕一郎、弟を豊二と云った。

兄弟は共に「岩倉鉄道学校」を卒業して
耕一郎は明治24年に新橋〜御殿場間の、
架線建設工事に従事していました。

(丹那トンネルが出来る前の東海道線は
御殿場回りでした)

耕一郎は24路線の架線建設工事に関わり、
明治38年に満州に渡ったのです。最初は

保線長として、そして明治40年には
南満州鉄道株式会社創立時に技師として勤務。

大正3年満蒙路線開設で路線調査並びに
経済調査に従事しました。つまり、

どこに線路を引くか。トンネルは何処か、
橋は何処に架けるか等の鉄道開設基礎を学び

この時の日記が、”満蒙の旅”として出版された。

満蒙の旅は800ページにも及び、当時の
南満州鉄道株式会社の国沢新兵衛副総裁が
序文を書いている。また、弟の豊二は、

明治30年28歳で渡台し、既報の通り
明治33年阿里山鉄道の基礎工事に従事する。

(つづく)
豊二と鉄橋

 

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

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