山口藤子さん文化講座(昭和初期の熱海咲見町界隈)

昨日は防災訓練の模様、今日は起雲閣での文化講座と、ここ2日間ほど
動画アップに不具合が生じており、ブログ制作者の
修復作業をお願いしている。その間、
神戸万葉倶楽部高橋常務のコメントが続いているが、
PRだと見て頂ければ幸いである。さて、
・・・今日は起雲閣千鳥の間にて、「まちの里庭」主催の文化講座が、

市内在住の山口藤子さんを講師にお招きして開催された。山口さんは、
熱海市議を8期務めた故山口包夫氏の未亡人で、今年88歳。これまでにも、
熱海市の歴史文化の語り部として親しまれてきたが、今回は、
大正末期から昭和初期にかけての咲見町界隈と題して、講演された。
因に熱海市の新田財政部長も藤子さんの親戚筋にあたる。で、
・・・ここのところ、弘法大師空海とのご縁、
”縁糸”について触れているが、この山口藤子さんと小生もまた、
何かに引き寄せられるように、符号点で結ばれているようだ。先ず、
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小生の自宅ビル(咲見町ムラヤマビル)だが、
大正末期から昭和初期にかけて、山口藤子さんの自宅だった場所である。次に、
偶然か必然的か、はたまた見えない縁糸に引き寄せられたのか、
熱海で最初のラーメン屋さんを咲見町の自宅で開業したというのだから、驚く。
ビルを買収した昭和57年当時には、こうした経緯を知る由もなく、
苦肉の一作で始めたラーメン屋が現在もドル箱として
村山家の屋台を支えているのだから、藤子さんに聞けば聞くほど、
たぐり寄せられた縁糸の不思議さを感じずにはいられない。おっと、その前に、
・・・
今日の講座の主催者をご紹介しておきたい。「まちの里庭」とは、
熱海市内で楽しみながら農作業をしているグループ名から名付けられ、
メンバーのほとんどがここ最近の移住者で構成されており、畑をしながら
楽しく交流し、情報交換の場として親しまれている。まちの里庭では、
☆新鮮で安心な野菜を販売
☆文化講座(熱海市民を講師としてお迎えする)
☆イベント(フリマ、地元作家の作品展示会等の開催)を主催しており、
文化講座については、
経験・知識・技能を持つ熱海市民をゲストにお招きし、
趣味・文化・教養講座などの他、子供たちに職業・仕事についてその内容や
やりがいなどをお話し頂く講座も用意し、市民が講師になるプロジェクトを開催している。

大正末期から昭和初期の咲見町界隈」ー山口藤子ー(1)
ー大正12年関東大震災、熱海の中心地銀座通りで津波にやられ
家と家財も失い、父母と私はその直後から咲見町(現在のあと5分)の処に済んだ。
熱海駅より網代まで県道であったが、大正14年、着工から19年ぶりに
完成したとは云いながら歩きにくく下駄の歯に石がはさまり、
学校通路でもあり難渋したのである。学童の服装は、

女史は勿論和服で、男子もかすりの着物で下駄履きが多かった。
仲見世通りと呼ばれたのが、昭和9年12月で、平和通りはなく
元松坂屋前の通りには人力車や車の通りであり、
陸軍衛生病院に行く道が一つ(行き止まり)現ビジネスホテル銭屋前より
藤沢公園横を下った海岸に行く道が一つ。
咲見町を通って網代まで、ここが幹線道路であった。大正14年、
乗り合いバスができタクシーがあったが時折にしか走らなかった。

大正15年人力車組合ができ、車庫が今の堀水産(熱海総合食品)の処にあった。
あとは馬力車物資を運ぶ為通る、一藤木材木屋、燃料屋があった。
それぞれ大きく商売していて、その為、馬力車がよく通ったが、馬糞と、
長々と尿水をし臭くて困ったもので、直ぐ取り除いたり、
水で流したり、大さわぎしたものである。

お客は人力車を利用して旅館に行った。駅前に提灯を下げ
赤い毛布を持ってお客待ちしている車夫は半纏、股引、独特の笠を被っていた。
梶棒の横に黒色のラッパがついていて、時々プップーと鳴らしたり、
はいよーのかけ声の時もあった。元咲見荘の処は下田牛乳屋と云った。
その一帯に牛が鳴く牧場で牛乳を配達していた。

大正から昭和9年丹那トンネルの開通まで、昭和10年伊東線網代開通まで、
林ガ丘のトンネル上は、鉄道が未だなく、あの辺一帯土手であった。
のんびりしていたものであった(熱海〜小田原駅開通大正14年3月)

熱海市内の学校は一つしかなく、今の第一ビルの処である。
一クラス65人、5組あったから一学年300人以上だ。いつも教室で
最後部席であった私は級長をしていた。そんなわけで私の同級生も多数おり、
熱海市内全域のことを何かと知ることができた。今、それが私の宝となっている。

咲見町の高台に医王寺があり、広緑があり、前庭も広く藤沢公園は勿論、
海まで一望できたのである。高い建物がなかったから
藤沢公園は桜の公園で花見時には遊華う。楠木細工の家もあり
出来上がった作品を見せてもらうのがまた楽しく、子供心に
うきうきしたしたものである。大さんという
身体の大きな叔父さんの親指のツメがいつも真っ黒で、筆に漆を入れて
ツメにチョイチョイとやっていた記憶がある。大さん家は
私の家の上の方にあり、笛の名人と聞いていた。

最近笛怜会の方に大さんのことを話したら、「私たちの師匠です」と
おっしゃった。私はやっぱりなとうなづけた。祭りが近づくと
あたみばやしのにぎやかな笛が流れ、普段でも笛を吹いていた。
何の曲であったろうか、おてんば娘の私でも、心静かに聞き入ったものである。
街全体が静かであった訳である。(つづく)

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

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