山口藤子(93歳)さんの随筆「なぜ どうして 気を見て敏な 子になった」(2)

昭和61年私は書いた。

「閏年女房」出版。

戦後10年からの
熱海の様子が良くわかる・・・。
書いていて良かったと、今思う。

お寺のご住職様は私に云った。
「無念で逝ってしまったご主人。
あなたなら書ける。熱海の為にも
書くことだね」

励ましのお言葉を戴き、又々調べ、
現地も調べ、書き、発表して
30年が過ぎた。

二・二六事件。私は小学校6年生。
多感な女の子。あの当時は、
情報が手に入らなかった。

たまたま湯河原で事件があり、

負傷した河野尋大尉を熱海陸軍病院に
道案内した駐在所巡査の娘さんが
同じクラス・・・。翌朝、
くわしいことを知り・・・。

何年か過ごし、今は亡き者と
「自決の場」を捜し当て、
今日に至っているが、
ご協力下さった方々は、物故者・・・。

私一人が墓参をしている。色々あった。

熱海の義人「釜鳴屋平七」さんのことは

夫と共に、罪人扱いされている平七さんを
世にだし、今、海浜公演に銅像が立ち、
思いで深い。それも書いた。

お母さん達と物書き運動もし、
主婦と生活と意見を出版・・・。

弾圧も受けたが、私は屈しなかった。

今は目が悪くなり、気力も失せた。
だが、毎朝、老人ホームで新聞に目を通し

「なぜ」「どうして」「機を見て敏」

日本の行く末を案じている・・・
ここに老婆が一人いる。

(参考 釜鳴屋平七)

 伊豆熱海村の網主。江戸肴問屋と結び、
伊豆山権現般若院を後ろ盾にして
鮪網の権利の 独占をはかる村役人に対し,

浜方網子の側にたち根拵網の存続を訴え、
安政6年韮山代官所に直訴する。

捕らえられて入牢。8年後、
家名の釜鳴屋を没収され、遠島に処される。
八丈島へ送られる途中の大島で病没。

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

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