Today's Kenzo

Published on 9月 12th, 2015 | by ken@jyohou.com

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「成島柳北」伝。

今朝未明、ベッドの中で大きな揺れを感じるも、
そのまま夢の続きに吸い込まれてしまった。

起床後のTVのニュースから、地震は東京を
震源(震度5弱)に関東一円を揺さぶったが、
幸いにも津波や建物倒壊はなかったようだ。

また、地震気象庁は昨日午後、箱根・大湧谷の
警戒レベルを3から2に引き下げ地元関係者を
喜ばせた矢先の地震であり、今後の余震が
どこに発生するのか気になるところでもある。

さて、熱海温泉三大恩人の一人と称された
「成島柳北」とはどのような人物なのか続けよう。

・・・・・

本名惟弘。剛を柳北と云った。

幕末明治期の漢詩人で随筆家、新聞記者。
徳川家定、家茂に径学を講じ、

騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁の要職を歴任。

維新後に下野する。新政権の招聘にも応ぜす
明治5年、東本願寺法王に従って欧州に遊び、

翌年帰朝。明治7年「柳橋新誌」を刊行。同年
「朝野新聞」主筆に迎えられ新聞界で活躍した。

また、柳北は明治元年33歳のときに
自分の略歴を書いている。

「墨上陰士伝」によると、

18歳で将軍家定の侍講見習い、
安政3年(1857)20歳で将軍に学問を講じた。

安政5年家茂(いえもち)が将軍となってからも、
柳北は侍講を続けるほか、祖父の司直が編纂した

「徳川実紀」や父「嫁堂」の著書
「後鑑」(のちかがみ)の改定を行った。

そして25歳にして彼の代表作
「柳橋新誌」を書き上げている。しかし、

文久3年(1863)突然50日間の閉門を命じられたが、
その理由は柳北自身にもよくわからず、

風流が過ぎたか、一言多かったか、
蘭学を学んだためなのか等、「墨上隠士伝」に書いている。

成島柳北の石碑(和田浜南町)と小澤隆沼津市議

 

 

 


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