Today's Kenzo

Published on 7月 23rd, 2015 | by ken@jyohou.com

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石森史郎氏(脚本家)と飯田真一氏(成島柳北子孫)のご対面

昨日の昼食は石森史郎氏とJR線神田北口
徒歩1分にある、餃子厨房にてランチ冷麺と
餃子3個をトッピングにユックリ時間をかけた。

電話では成島柳北とその子孫に関して、
ザックリと話していたが、柳北の7番目の娘が
飯田豊二と結婚したこと、豊二が台湾高雄市の
人たちに愛されていたこと等、資料を

餃子のタレが付かない程度にテーブルに広げ、
小生が調べた限りの2人に関する史実を伝える。

食事の後銀座線で末広町で下車し健康夢空間に
河岸を変えて、後から合流した飯田真一氏を

石森史郎氏にご紹介し、飯田豊二氏の台湾での
偉業についてコピーした資料を読み上げる。

飯田豊二は明治7年10月、沼津市城内添地で、
飯田弘の次男として生まれた。明治20年

わが国最初の私立工科系学校(工手学校)に学び
兄が耕一郎が鉄道技師として務めていた同じ、
鉄道局に就職した。明治29年3月兄耕一郎が

台湾に渡り線路実測に従事し2~3ヶ月で帰国、
その後再び台湾行きの内命があり、同時に
豊二にも同じ命令が下った。ただ、当局は後から

二人が兄弟ということを知り、二人一緒に
台湾にやることは気の毒であり、どちらか
一人にせよとのことになった。当時の台湾は

気候風土の関係上、人々は台湾行きを避け、
兄の耕一郎は満鉄に、豊二が台湾行となった。

明治30年28歳で台湾に渡り、明治43年に
台湾総督府鉄道技師に任ぜられ、阿里山鉄道の

建設工事に従事し、明治45年九曲堂下淡水渓の
鉄橋工事の主任として本橋工事の任務にあたる。

(つづく)
石森&飯田


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One Response to 石森史郎氏(脚本家)と飯田真一氏(成島柳北子孫)のご対面

  1. 飯田豊二記念碑の有るダスウと言う町に住んでいます。関する掲示を読んで嬉しかったです。是非、来られてください。

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