Today's Kenzo

Published on 10月 16th, 2013 | by ken@jyohou.com

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石森史朗氏(脚本家)、熊本日々新聞(夕刊)に”肥後もっこす・映画監督・牛原虚彦”の連載決定!

谷川温泉・旅館たにがわ客室からアップする。台風の影響で出発時間が大幅に遅れている。予定を変更して、川越に向かうようである。その時間を利用して、石森史郎氏(脚本家)の近況を紹介する。
石森氏のコラムが来月11日(月)から熊本日々新聞夕刊に 一年間(50回)にわたって連載されることが決まった。タイトルは、
肥後もっこす映画監督「牛原虚彦」。牛原監督は1897年熊本市に生まれ。
ここからは石森氏から聞いた話をWikipediaに重ねてご紹介する。 東京帝国大学文学部英文学科を卒業し松竹蒲田撮影所に入社。1920年、
小山内薫が松竹キネマ研究所創立とともに、第1回作品の脚本を書く。 2作目の『山暮るる』で監督デビューしたのち、蒲田撮影所の監督となる。

1926年、ハリウッドへ渡り、チャールズ・チャップリンの無声映画 『サーカス』の撮影隊の助手として研鑽を積む。帰国後、
明朗快活な青年像を描いた作品を発表し、青春映画の原型を形作った監督で、 日活映画監督として、石原裕次郎主演の鉄火場の風(1960年)や
赤木圭一郎主演の紅の拳銃(1961年)を撮った牛原陽一監督はその息子。 石森氏と牛原虚彦監督の繋がりは、1950年、牛原虚彦監督が
日本大学芸術学部映画学科客員教授になり、1956年から同学科主任教授の時の
恩師として指導を受けたことから、熊本日々新聞からオファーを受けた。 石森氏は牛原教授から、チャップリンの人物像を徹底した秘密主義者で、
助監督を育てようとはしなかったが、唯一、日本から助手として加わった、
牛原氏に対しては、監督の勉強をしにきているのではなく、映画の勉強に来た、と、
サイレント映画の基礎を学ぶことができたと、エピソードを話した。 石森氏の近況


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