熱海新聞(旧)社主、久保田千秋氏逝く。

今朝は10時から、熱海市庁舎5階会議室において、
熱海市議会3月定例会に向けた会派別政調会に出席した。今日は
小生(熱海市政調査会)と公明党の2会派が、当局側から
22年度予算案についての基本方針と予算規模、その内容について
質疑応答が行われた。一人会派ということで、毎回、政調会では、
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本会議場で質問する予定案件に関する意図や骨子等について、事前に
当局側に投げかけ、一人会派に与えられている質問時間、
僅か45分という短い時間の有効活用を促すように心がけている。今回は、
斉藤市長の基本方針を録画撮りさせて頂き、提出予定案件の説明を受けたあと、
10分間の休憩タイムに入った際に、携帯にて恩人の訃報を知らされた。
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亡くなったのは、旧熱海新聞社主で元熱海市議会議員(昭和50年から一期)を務めた、
久保田千秋氏(76歳)だった。久保田氏は昨日、
入居先の徳島県内の施設で息を引き取ったといい、現地で火葬した後、
20日午後1時より医王寺(咲見町)において、葬儀を行うということだった。
17日といえば、久保田氏と同年の俳優の藤田まことさんも逝った日である。


故人の姿がここの所暫く見かけなかった筈である、娘さんの話では、ここ数ヶ月で
高齢者特有の症状が進行し、事情は聞けなかったものの、
四国の施設に入居していたというのである。久保田氏は生前まで
年代を超えた広い層から、ち~ちゃん という愛称で親しまれ、これまで
熱海市の水泳協会役員としても市内の子供達のスポーツ振興に貢献してきた。また、
小生にとって恩人というわけは、その久保田氏をお手本として、
久保田氏が初当選した3年後の昭和53年9月、無謀と揶揄されたものの、
市長選に乗じて市議会補欠選挙に立候補したことや、敗れたあとは、
20年後に再挑戦するまでの間は、生活の基盤造りを目標に掲げ
熱海市の基幹産業に即した、印刷業、ビル経営、飲食業、日刊紙買収等の
事業展開をしながら現在に至っており、4度目の挑戦で初当選できたのも、
当時の久保田千秋の姿に、新聞社社主としてだけでなく、議員の立場からも
行政介入して不正を糾弾する姿勢を眩しく覚え、研鑽してきたからだと自覚している。

久保田氏が熱海市議会に立候補し、これまでの最高得点(1350票)で初当選した
昭和50年4月選挙をお手伝いしてからのお付き合いとなったが、
実兄の諸問題を背負い晩年の不遇時代を乗り越え、小生の初当選から
後援会の出納責任者としてお世話頂いてきたのは、全てを語れないものの、
同じ、11月3日生まれという符号だけでない、”髄縁”を感じつつ、冥福を祈りたい。

村山憲三 ▪︎熱海市議会議員(5期)  

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